羽村市の概要
羽村市は、東京都心から西へ約45キロメートルに位置し、多摩川周辺の自然や武蔵野の面影を残す雑木林などの緑に包まれ、住宅地と工業地域がバランス良く配置されたまちです。市の西から南へ多摩川が流れ、江戸時代に開削された玉川上水の取入口のあるまちとして知られています。西と北を青梅市、東を西多摩郡瑞穂町、南を福生市・あきる野市と隣接しています。経済的には北西部の小作地区は青梅市と、南西部の羽(はね)地区は福生市との結びつきが深くなっています。近代以後は養蚕を主とする農村でしたが、高度経済成長期以後、自動車工場の誘致・建設などで人口が増加し、ベッドタウン化が進みました。平成3年(1991年)に市制を施行し、都市基盤や公共施設の整備をはじめ、産業振興施策、少子高齢化対策など、市民のニーズと時代の要請に応える施策に取り組むことで、人と自然、都市機能の調和した美しいまちづくりを進めています。
羽村のあゆみ
縄文時代からの長い歴史のなかで、羽村市を語るに欠かせないのが、承応2年(1653年)、四代将軍家綱の時代に開削された玉川上水です。人口の増加で飲料水が不足した江戸へ水を送るため、幕府は玉川庄右衛門・清右衛門兄弟に、羽村から四谷大木戸まで約43キロメートルに渡る開削工事を命じました。羽村は、近世初頭まで小さな村でしたが、玉川上水の完成により、江戸幕府との交流が頻繁となり、上水取入口の村として脚光を浴びるようになりました。
玉川上水は、羽村に江戸の文化を伝え、村の自治や経済に大きな影響を与えるとともに、その後の羽村のまちづくりを担うことになりました。
明治22年(1889年)、羽村・五ノ神村・川崎村の3ヶ村は、市町村制が施行されたのを機に合併し、羽村市の前身である西多摩村となり、明治26年(1893年)、神奈川県から東京府に編入されました。その翌年、青梅鉄道が開通し、羽村・小作両駅が開設され、鉄道交通の恩恵を受けることになりました。当時は、農業を唯一の産業とした純農村でしたが、養蚕業に力を注ぎ、大正時代には「養蚕日本一の村」といわれるまでに発展しました。しかし、昭和2年(1927年)に起こった金融恐慌、その2年後の世界的な大恐慌の嵐に見舞われ、繭価は暴落し、養蚕はしだいに衰退していきました。農民は、経済の立て直しを図るため、乳牛による畜産を導入し、酪農家が急速に増え、「養蚕の村」から「牛飼う村」として知られるようになりましたが、その後、戦争の激化につれて飼料が得にくくなったことなどにより、牛の数も減少していきました。戦後、農地改革が行われ、多くの小作人が自作農となり、農業団体の再編成などが進められました。
昭和31年(1956年)町制を施行し、人口10,104人の羽村町が誕生しました。その後、上水道事業を開始するとともに、工場設置奨励の条例を制定するなど、工場誘致と都市基盤の整備に向けて動き出しました。昭和37年(1962年)には首都圏整備法による市街地開発区域の指定を受け、新しい都市建設が始まりました。土地区画整理事業を重点施策とし、工業団地の造成を推進した結果、まちの経済的な発展の大きな支えとなる多くの工場が進出するとともに、道路・公園・下水道などの各種公共施設の建設が進みました。そして、地域住民のまちづくりへの大きな理解と協力により、様々な困難を乗り越え、現在の羽村市の大きな財産となる都市基盤と学校・保育園・図書館・公民館・スポーツセンター・児童館など、公共施設の整った活力にあふれる職住近接の都市へと発展しました。
羽村町は、平成3年(1991年)に市制を施行し、人口52,103人の羽村市となりました。市制施行に伴ってスタートした、第三次長期総合計画では、「人と自然にやさしく 活力あふれるまち はむら」を将来像に定め、その実現に向けて施策の展開を図り現在に至っています。
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| 羽村の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓ |
羽村市郷土博物館 |
| 住所: |
羽村市羽741 [地図を見る] |
| 電話番号: |
042-558-2561 |
| 開館時間: |
10〜3月/9:00〜17:00
4〜9月/9:00〜18:00 |
| 休館日: |
毎週月曜日(祝日の場合は開館)
12月29日〜1月3日 |
| 入館料: |
無料 |
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